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闘牛に学ぶ、「闘わない」という知恵

=優勝劣敗の人間社会が忘れた知恵=

2017年06月14日

社会・生活

上席主任研究員
貝田 尚重

 「ヨシター!ハイ!」「ヨシター!ハイ!」

 梅雨の晴れ間、牛を操る勢子(せこ)の朗々とした掛け声が闘牛場に響き、力自慢の牛たちが角を突き合わせる。

 2017年6月11日、岩手県久慈市山形町の平庭闘牛場で開催された闘牛大会を観戦した。人間が牛と戦うスペインの闘牛とは異なり、日本の闘牛は「牛相撲」「角突き」と呼ばれ、牛同士の力比べだ。1トンにもなる巨体の牛が、角を突き合わせ、四肢を踏ん張り、ギリギリと押し合う様は迫力満点だ。

 結びの一番、東の横綱は土俵に入る前から、重低音で「ムオーーー、ムオーーー」と雄叫びを上げ、闘志をむき出しにした。激しくぶつかり合う熱戦に期待が高まる。ところが、いざ戦いが始まると、横綱は身体を横向きにして、相手と正面から向き合おうとしない。

身体を横にして相手に睨みをきかせる横綱相撲

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 ちょっと拍子抜けしていると、すかさず場内アナウンスで解説が入った。正面から向き合わないのは、勝負から逃げているわけではないという。相手の目の前で、自らの身体の大きさを誇示し、横目で睨みを効かせながら、「こっちが格上だぞ!」と無言の圧力をかけるのだ。角を突き合わせ、身体をぶつけ合ってエネルギーを消耗しなくても、「ああ、こいつには到底かないそうにないなぁ」と、相手方の戦意を喪失させることができればそれで十分。かくして結びの一番、一度も角を合わせることなく「引き分け」に終わった。平庭闘牛は、原則としてすべての取り組みが「引き分け」で、敢えて勝負を着けない。

 闘牛の歴史は、江戸時代までさかのぼると言われる。当時、牛は荷役や農作業のための大切な労働力だった。三陸の沿岸部で炊いた塩を、北上山地を越えて内陸の雫石や盛岡まで運び、内陸からは沿岸部へ穀物などの食料を運ぶために牛が使われていた。牛方は、何頭もの牛を引き連れ、険しく長い山道を超えていかなければならない。角突きによる力比べで最も強かった牛を先頭に立たせると、群れを御しやすくなり、安全に荷物を運ぶことができたそうだ。怪力で田畑を耕し、荷物を運んでくれる牛は、家族の一員であり、大切な労働力でもあった。角突きによって序列をつけることはあっても、傷つけ合い、消耗させるのが目的ではなかったのだ。

1トンの牛がぶつかり合うと迫力満点

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 自動車が普及し、道路が整備され、荷役に牛を使わなくなって久しい。今では、闘牛は観光資源の一つだが、それでも「引き分け」の伝統文化は脈々と受け継がれている。

 若い牛でも500キロ前後、大関・横綱クラスになれば1トンにもなる。角を合わせる場面は迫力満点。牛の激しい息遣いが伝わり、身体がぶつかり合うドスンという振動から牛の本気度が分かる。牛を操る勢子たちの表情も真剣そのものだ。会場全体の空気が熱くなり、盛り上がってきたところで引き分けが告げられる。

 特に、初土俵を踏む2歳牛、戦歴の浅い3歳牛は、角を突き合わせ、少しでも力量の差が見てとれると、アッという間に引き分けとなる。若い牛はまだ遊び盛りなので、戦う気がない場合でも、「いいよ、いいよ、無理はさせるな」とすぐに引き分け。闘牛場が「自分の力を発揮するための素晴らしい舞台」と思えるように、「負け癖をつけない」「怖くて嫌いな場所と思わせない」ように配慮しているというのだ。

 勝負が着かなくても、観客に不満はない。引き分けた後、闘牛場を一周して退場する際には、どちらの牛も会場から温かな拍手が送られる。

 傷を負い、意気消沈してしまうほどの闘いはしないなという知恵。
 次への成長につなげる引き分けの美学。
 優勝劣敗の人間社会が忘れかけた知恵が、平庭闘牛には残されているような気がした。

(写真)筆者

貝田 尚重

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